2009年1月30日金曜日

命のセイフティネット

マイケル・ムーア監督の「シッコ(Sicko)」では、アメリカ以外の国ではどうなっているのかと、カナダ、イギリス、フランスの健康保険の状況を紹介している。それでまた驚いたのが、それらの国では、医療費が基本的にタダ。国民の健康管理は税金で行っているようである。フランスではさらに大学授業料も無料。北欧各国の高福祉政策は有名だが、よく知っているこうした国々でも健康保険や教育分野には大体税金を使っているようである。日本でも私の経験から知る限り、昔は被保険者は無料で家族が1割負担だったような記憶がある。日本の健康保険は企業の健康保険組合か国民健康保険が運営しており、あくまで受益者負担となっていて、最近では医療費の増加に伴い、赤字会計が続いている。シッコを見る限り、日本の医療制度はアメリカとヨーロッパの中間くらいの感じだろうか。日本は世界最大の債務国になっていて、予算の増額等は厳しいだろうが、やはり少ないながらも税金の使い道について、安心して暮らせるような社会づくりのために使ってほしいと願う。

シッコ(Shicko)


社会批判のドキュメンタリー映画を作り続けているマイケルムーア監督の最新作。
今回のテーマはアメリカの医療制度。いつもは多少苦笑を取るような撮り方をするのであるが、今回はそういうものはほとんど見られず、いかに深刻に監督自身が受け止めているかも感じられる。
 アメリカの医療制度がここまで疲弊していることに正直驚いている。大体数の国民が疲弊している一方、いわゆる勝ち組のエリートたちはますます肥えて行っている。こうしたアメリカの利益至上主義の一部富裕層によって、今回の世界的経済危機が起こされたかと思うと何とも悔しい限りである。

国民皆保険が西側諸国で唯一ない国。世界一の経済大国にあって、無保険の人が約5000万人いる。譬え保険に入っていたとしても、保険金がなかなか支払えない。病気になったら破産の憂き目に合う人も多い。映画の中では色々なエピソードが紹介されているが、中でも一番ひどいと感じたのは、保険の契約条項の中に、救急車を呼ぶときは、事前に保険会社の了解をとらなければ保険は適用されないというのがあること。それに対してある女性は「一体いつ連絡すればよいのか?」と。それを聞いて吹き出しそうになるが、そうした非常識がまかり通っているのが今のアメリカの医療制度のようだ。
行き過ぎた市場原理の導入と利益一辺倒の産業体質。保険金の支払いを否認する件数の多い医者が優遇される。人の命に関わることについては市場主義や利益主義を導入すべきではないのだろう。
日本もバブル崩壊以降、アメリカのこうした市場主義を積極的に導入し、自由競争や自己責任という、あたかも自由主義の推進といった印象を国民に与え続けてきた。昨年の高齢者医療制度はその最たるものである。分野を選ばず、かつ行き過ぎた市場原理の導入や規制緩和は、国を台無しにしてしまう。国民が本当に安心して暮らせる(怠けるのではない)国づくりが本当に必要である。日本も累積債務がどんどん増えていって、財政難からいつアメリカのようにならないとも限らない。私たちもまじめに税金を誰のために使っていくのか、そして日本の国の形とは何なのかを真剣に考えなければならない。

2009年1月28日水曜日

貧困大国アメリカ


堤未果のルポルタージュであるが、民営化等による市場原理や競争原理により、サービス向上や値段の低下が期待されてきたものの、実際は中流階級の消滅し、大半が低所得者層に吸収されているという。法外な医療費や医療保険、4700万人が無保険状態という。病気になっても病院にはかかれないし、病院にかかれたとしても高い医療費支払いで一挙に破産に追い込まれる人がたくさんいる。
若者に仕組まれた軍産複合体制の罠も周到である。低所得者層の若者に焦点を絞ったアメの政策。軍への入隊しか選択肢がないように巧妙にし向けていく。
全ての公共サービスが民営化にシフトしていく、ついには戦争までもが派遣ビジネスを取り入れ、民営化していった。ブッシュの責任は非常に重いし、それにならい急激な民営化や競争原理の導入を進めていった小泉内閣の責任もとても思い。
以前からワーキングプアの問題が議論されてきたが、昨年9月以降は世界的な経済危機によって、一挙にワーキングプアが増加している。働き口があるのはまだ幸せで、働くこともできないでいる人々がたくさんいる。働けないと言うことは、本当に辛いことだと思う。社会の一員としての人とのつながりや生き甲斐もなく、毎日を暮らしていかなければならない。
20歳代の若者がこうした状況に陥れば、そこからはい上がってくるのは至難の業である。これからの40年、50年を将来への希望もなく生きていかなければならないのは、あまりにも残酷な話である。経済と何なのか。国とは何なのか。そして幸福とは何なのかを考えることが多くなった。

2009年1月27日火曜日

資本主義はなぜ自壊したのか

以前は新自由主義、構造改革、グローバリズムの騎手でもあった中谷巌氏が”自戒の念”を込めて、転向とも言える論文を発表した。
私も小泉政権以降、彼の進めた構造改革は、論理的にも筋が通っているとは思いながらも、日本の社会、何かおかしいと感じ続けていた。そこに昨年9月の投資会社リーマンブラザースの破綻以降、ここ数ヶ月で世の中があっという間に変わってしまった。特に心が痛んだのが、ネットカフェに泊まり続けるワーキングプアの姿や、今般の非正規雇用社員の首切り問題。「ひとりがみんなのために、みんながひとりのために」という相互扶助の精神はどこへ行ってしまったのか。今や雇用人口の3割が非正規社員。所得再配分後の貧困率がアメリカに次いで第2位。貧しいながらもみんなで楽しく生きていた昭和の時代は一体何処に行ってしまったのか。
グローバリズムや新自由主義は、自己責任による自由や民主主義、頑張った者が報われる成果主義など、耳障りのよいスローガンに誰もが疑うことなく、バブル以降盲進してきた。その結果が年末に何万人も住処も追われ、職もなくし、絶望のどん底に突き落とされる。やさしい日本は一体どこにいったというのか。
安心・安全な日本はどこに行ってしまったというのか。
著書では、こうしたグローバリズムや新自由主義の弊害(世界経済の不安定化、所得格差、環境破壊)について、反省を込めて分析しているが、一時期は片棒を担いだ人間が著書での懺悔で許されるのかとも思うが、まあ反省しないよりはよしとしようか。
氏は何よりも所得格差の是正が最優先課題であるとするとともに、人間と人間のつながりといった社会システムの再生、そして安心・安全な暮らしができるような社会福祉システムとして、消費税の大幅アップ(20~25%)と還付付消費税の導入や所得税の最高税率のアップによる所得の再配分が必要としている。
以前にもブログで描いたが、高福祉社会である北欧フィンランドでは大学教育が無料で受けられるのであるが、その大学生が国のために働きたいと言い切ったことがとても驚きであった。高福祉社会では働く意欲や競争心がそがれ、国の経済競争力の低下を招くという人もいるが、実際はそうではない。将来に不安のないことが第一に必要な条件であると思う。現に私も国立大学を卒業しているが、卒業以来、何か国のために役立ちたいという思いをもっている。ところが今の現状を見れば、ワーキングプアの若者や解雇された非正規従業員にとっては、今を生きるのがやっとで、将来に対する希望や夢は描く余裕もないのではないか。そしてそういう状況が続けば、頑張ってという気力さえ消え失せ、絶望と無気力の中で一生を送らざるを得なくなるのではないだろうか。こうした状況はとてもまともな社会とは思えない。私にも何かできることがあるだろうか。昨年の年末から強くそうしたことを考えるようになった。

2009年1月22日木曜日

悲しい・空しい

先日、奥さんに言われてことを引きずっていて、何とも悲しく・むなしさがこみ上げてくる。

2009年1月21日水曜日

嫁姑~永遠の課題

我が家は、父親の死以来、30年間、一つ屋根の下に母親と同居の生活を送っている。
嫁と姑のトラブルは以前から聞いてはいたが、それはどちらかの性格に問題がある程度にしか思っていなかった。我が家の場合、嫁も姑も性格的にはおだやかなので、何とかやっていけるものと安易に考えて、同居に踏み切った。
トラブルはすぐに起こった。そのとき、台所が女の聖地であることを嫌と言うほど感じさせられた。たかが台所と思っていたのが、大きな間違いだった。結局同居10年目にして台所を追加するリホームをせざるを得なかった。おかげで台所の争奪戦はなくなり、以前よりもトラブルの回数は激減した。
それでもことあるごとに、嫁からは同居に対する嫌みをじくじくと言われることがあった。これ以上言われても、姑に死んでもらうか、嫁と別居でもしない限り解決策などあり得えなく、それを言われるごとに私としてはいつも気分が滅入ることがほとんど。いい加減にやめて欲しいと投げやりに思うことがほとんどで、特に歳を重ねるごとに、自分の人生に対する何とも空しく・悲しい気持ちに苛まれる。
最近つくづく嫌になっている自分が嫌である。

2009年1月4日日曜日

巣立つ子供たちへ

社会人1年生の娘が、明日から始まる仕事のために、東京へ帰る。少々寂しさも感じるが、一人で何とか生きていけるようになったのは嬉しくもある。
娘より6歳年上の長男は昨年30歳に。鬱病を患い大学での学習や就職もうまくいかず、ここ2年間は自宅にいたのが、ようやく臨時雇いながらも1年間同じ会社に勤めるようになった。私が親から受けた恩は、少なくとも次の世代へと繋げたようだ。最低限度の親の責務は果たしたと思うと同時に、ずいぶんと歳をとったと感じる。これからの人生を何のために生きていくのかをじっくりと考えていく必要がありそうだ。

教育のコスト

昨年、東京で就職した娘が今日帰った。
京都での1年間、そして東京での4年間の大学生活にかかったコストはしめて1,500万円也。1年あたり300万円がかかった計算だ。私が親元を離れて札幌で学生生活をした時は、授業料が年間3万6千円。仕送りが2万5千円×12月で30万円、年3回の帰省のための交通費が3万円程度だから、しめて約40万円。大学入学時はオイルショック後だからそれほど物価が高くなったとは思えないので、何という違いだろうか。今や国立大学でも年間70万円ほどかかっている。これでは所得の低い家庭では子供を大学にやることは大変なことである。
 私は国立大学を卒業したが、卒業後は国民の税金をたくさん使ったから、何らかの形で恩返しできるのであれば、と常々考えてきた。そうした思いが甦ってきたのは、今日のニュース番組でフィンランドの大学生の一言があったから。北欧は以前から高負担・高福祉の国々として知られている。フィンランドの大学は授業料が無料で、生活費についても銀行ローン等が充実していて、親の支援がなくても国立大学であれば、実力さえあれば、誰でも通うことができる。今日の女子大学生も卒業後は、フィンランドの大学で学んだのだから、フィンランドの社会のためにできる仕事をしていきたいというものであった。この言葉を聞いて、しばらく意識してこなかった思いを思い出した。大学教育も受益者負担の原理から、必要な経費を受益を受ける個人の負担としているのが現在の日本の教育システムであるが、それが国のための人作りといった観点からすれば、社会のために尽くしたいという学生が非常に少なくなっているような気がする。いい会社や高い地位につくことのみを追求し、本来自分たちが暮らしている社会のためにという気持ちを持つ卒業生は果たしてどのくらいいることだろうか。そう考えるとフィンランドのこの女性学生の一言がとても自然で本来あるべき教育の姿ではないかと思う。